ゴールデンカムイ第7師団の史実を簡単に説明する
明治維新後、明治政府は西洋列強に対抗するため中央集権制度に基づく兵力、軍備の統制と編成を行わなければならなかった。
全国的な統一の常備軍を創設するにあたり、その土地の武士団を解散させ、創設し直し新しい軍制を引くことを明治政府は目指した。
全国に鎮台という編成単位をおき全国各地の防衛を担った。
幕末、北海道ではそもそも人口が少なく、あの広い北海道にアイヌ民族の人口は2万人弱、
和人(日本人)は7万人程だったと言われている。
あまりの人口の少なさから鎮台を置く兵力が捻出できず北海道への鎮台の設置は見送られた。
しかし、ロシアの南下に対抗する組織の必要性と
役割を失った士族の救済などの意味を込めて北海道にも軍事組織の創設は必要であった。
そこで創設されたのが北海道第7師団の全身組織である屯田兵の設置である。
その後屯田兵は1896年に第7師団となった
屯田兵から第7師団への昇格の理由としては北海道の人口が1万人の兵力を捻出することが可能な水準まで増加したことにあるが、実際には兵力は足らず東北地方出身の兵も加えられた。
何故、゛だいしち゛師団と呼ぶのかは明治天皇が
゛だいなな゛師団では無く゛だいしち゛師団と呼んだからそう言われているそうだ。
第7師団師団がその名を轟かせた戦はあの有名な
203高地の戦いである。
第7師団は当初予備戦力として戦線へ投入されたが、203高地の攻略を行っていた第1師団の損耗が激しく、第7師団の戦線への投入され壮絶な戦いの後
ロシア軍を撃退、旅順港に居るロシア艦隊を壊滅させた。
さらに日露戦争最大の陸戦である奉天会戦では乃木希典率いる第3軍の主力として第1師団、第9師団と共に勝利に貢献した。
この時なんと第7師団は4倍の兵力差で迫り来るロシア軍を撃退したと言う。
第7師団が最強と言われるのも納得ですね。
その後のノモンハン事件では
ソ連軍と交戦し、ソ連軍機甲部隊に対して火炎瓶で抵抗しソ連軍に大きな損害を与えている。
エグすぎる笑
陸上自衛隊西部方面隊を簡単に説明する
陸上自衛隊西部方面隊は主に九州、沖縄の防衛を担当する陸上自衛隊の方面隊の一つである。
司令部は熊本の健軍駐屯地に置かれている。
西部方面隊は2個師団及び1個旅団で構成されており
陸上自衛隊第4師団、第8師団及び第14旅団で構成されている。
師団とは定数約9000~6000名からなり
旅団とは定数約4000~2000名からなる部隊単位である。
近年中国の目覚しい発展と、軍備の増強に対応し
侵略に備え諸島部を奪還するため新たに創設された日本版海兵隊とも言える水陸機動団の本拠地があるなど、今後の中国の台頭に対して主要な任務をになっていく事になることが予想されている。
主な部隊として
他国では歩兵のような役割を果たす普通科連隊を初めロケット、大砲などで支援攻撃を行う特科群や戦車部隊、ミサイル部隊や、チヌークなどのヘリ部隊など充実した部隊を有している。
私も通学や街へ出かける時バイパス道路でPAC3を牽引する自衛隊を見た時は思わず興奮してしまいました笑。
自衛隊の方々とは交流する機会が多いのですが、やはり人柄や凛々しさなど惹かれるところが多いですし、尊敬しちゃいます。
イベントなども多く行われていますので
コロナが治まったら是非駐屯地などに遊びに行かれると楽しいと思います。
駐屯地一覧
小郡駐屯地(福岡県)、春日駐屯地(福岡県)
小倉駐屯地(福岡県)、久留米駐屯地(福岡県)
国分駐屯地(鹿児島県)、飯塚駐屯地(福岡県)
えびの駐屯地 (宮崎県)、川内駐屯地(鹿児島県)
その他11分屯地
55年体制を簡単に説明する
55年体制とは?
時は戦後。
当時は冷戦の真っただ中。
代理戦争が起き戦争の危機が高まった時期だった。
中国では中国国民党が国境内戦で敗れ共産党が中国を支配したためアメリカは日本を共産主義の防波堤にしなければならなかった。その結果日本を再軍備させる政策へ転換した。
この当時日本は非民主化、非軍事化に逆行する動きが加速しこのことを逆コースと言う。
日本の逆コースに対抗したい社会主義系の政党は護憲と反安保を掲げ連合をくみ社会党統一が行われた。
社会党統一に危機を覚えた日本民主党と自由党はそれに対抗して保守連合を作り自由民主党(自民党)が作られた。
自民党は憲法はアメリカからの押しつけであるとして憲法改正を主張した。
一方社会党勢力は日本の逆コースに対抗するべくなんとしてでも改憲を阻止したい。
憲法改正に必要な条件は各議院の総議員の3分の2以上の賛成と国民投票で過半数を獲得する必要があった。
何としても改憲したい自民党であったがその議席は3分の2に届かず、社会主義系の議席は3分の1を占め
改憲が阻止される状態が続いた。
この政治体制を55年体制と言います。
その後、55年体制は40年近く続きバブル崩壊やリクルート事件、東京佐川急便事件をきっかけに政府への不満が高まり自民党の選挙での敗北を機に55年体制は崩壊した。
1989年にはソ連も崩壊し社会党勢力の勢いも弱まりなんと社会党勢力も惨敗してしまった。
ここから様々な政治改革や行政改革、経済改革が行われ現代の日本へと変わっていく、ここから若者の知る日本の政治体制が始まった
そう考えるとやはり私たちは歴史の流れの中にいるのだなと実感できますね。